· 

調和

【わたしの論争】

 

「私」について

禾(のぎへん)には、実る、収穫という意味合いがあるそうです。

ム(無)は、亡くなった、存在しないという意味です。

 

つまり、私という漢字を通して、

「わたしは何も得るものがないダメな存在なの」と言い続けて染み込ませていることになります。

 

■和多志(わたし)について 

江戸時代には、私のことを和多志と書いていたそうです。

和(なごみ・あえる) 多(おおい) 志(こころざし)

 

全体の中の一人であり、全体の中に個(自分)が存在するという意味です。

多くの志を和す(調和)全体の中の一部であり、この世界の中の一人のわたしです。

 

個があって全体があるのではなくて、全体があるからこそ個が存在すると考えると、「ありがたい」「生かされている」ということを痛感します。そして、「生かされている」からこそ「生きる」という思いになります。

 

ちょっとした捉え方の違いだけなのですが、これが意識の根本にあるのとないのとでは、表現される世界は180度違うものになります。

 

私と和多志については、米軍の陰謀により私に変えさせられたとか、様々な意見があるようですが、正解や不正解を一方的に決めてしまうと、それぞれが窮屈な考えになってしまうので、「このような考えもあるんだなぁ」と否定を学びに捉えることも必要だと思います。

 

自分が不正解だと思っていたことが、他の人には正解だったりもするわけで、私と和多志も「わたし」と読んで共通もあります。和多志は正式な書面には使えないとは思いますが、それぞれが好きなように使い分けてもいいのではないでしょうか。